私塾 紫微垣

わが国の恩人
〜スリランカ〜
(光り輝く島)

 
 TV番組世界ふしぎ発見「今解かれるスリランカの封印」という回の放送でのお話しです。
 
 この日、番組の女性レポーターは、マヒンダ・ラジャパクサ大統領から直接お話を伺う機会を得ました。

 大統領からお聞きしたお話しは、私たちが学校では習っていなかった、とてもありがたいお話しでした。


戦後の私たちの運命を変えたひと言


 第二次大戦後、敗戦国となった日本の処遇を決めるサンフランシスコ講和会議が開かれました。 

 会議では被害を受けた国々は、激しく日本を非難していました。

 敗戦国であった日本は、多くの国から莫大な賠償を求められました。
 ロシア、アメリカ、中国、イギリスの四カ国による日本領土の分割案まで出されていました。


 このような日本にとって厳しい状況にあるなか、、セイロン(現在のスリランカ)の代表であった若い大臣(後に初代大統領になるジャヤワルダナ氏)が演壇に上がったとき、人々の心を打つ次のような演説をおこないました。


「日本とスリランカは、千年を超えて仏教の教義を共有してきました。
仏陀は、『憎しみは憎むことによって消えることはない。憎しみは愛することによって無くなる』と言いました。我々も、もう憎しみを忘れようではありませんか」
と。


 実は、わが国日本は、そんなスリランカを攻撃したことがあります。

 第二次世界大戦中、かつてセイロンと呼ばれ、イギリスの植民地となっていたこの国を、日本軍はイギリス艦隊のあったコロンボトリンコマリーを空爆し、大きな被害を与えました。

 しかしそんな私たち日本の国に対し、彼はさらに、『このアジアの将来にとって、独立した自由な日本が必要である』と主張しました。そして『賠償請求もしない』と言ったのです。

 わが国からこの会議に出席していた時の総理大臣吉田茂は、その演説に深く感銘し、感激したそうです。


 その後サンフランシスコ講和会議は、戦後の日本復興を援助する方向へと変わっていきました。

 彼の言葉で多くの国の気持ちが変わったのです。


 スリランカのかつての首都であるコロンボにあるJ.Rジャヤワルダナ資料館には、当時の原稿がそのまま残されています。

 女性レポーターは、ここの館長に、次のようなインタビューを試みました。

「他の国々が反対するなかでの、ジャヤワルダナさんのスピーチというのは、とても勇気がいるものではなかったのでしょうか?」

 すると、彼はこのように答えました。
「そうですね。大国から見たら、スリランカはとても小さな国です。でも、友人を救うために勇気を振り絞って演説をしたのだと思います。彼の演説のおかげで私たちはこうして会う事が出来たのですよ」。

 日本にとっての恩人、ジャヤワルダナ氏は、その後も日本との友好関係に尽力をつくしたあと、1996年90歳でこの世を去りました。

 彼は彼の遺書に、<自分が死んだら、角膜のひとつをスリランカの患者さんへ、もうひとつを日本の方へ、移植して欲しい>と書き残しました。
 彼の遺志の通り、彼の角膜は長野県に住む女性へと移植されました。
 
 それは、二つの国の未来を見つめ続けていたいという彼の願いからだったということです。




スリランカについて

 スリランカの国名は、スリ(光り輝く)ランカ(島)の意。大きさは、北海道とほぼ同じ。
 首都は私たちの世代はコロンボと習いましたが、1984年にスリジャヤワルダナプラコッテに遷都しています。
 
1948年2月4日、イギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となりました。
 1983年、シンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こり、さらにシンハラ人とムーア人の対立、シンハラ人内部の対立も激化しました。 2009年までの長期にわたる事実上の内戦が継続しました。
 そのため、日本で売られているガイドブックにも、東部と北部の情報はほとんど掲載されていらず、この地域のに関することは、人々のあいだでは幻の存在であったようです。

  2004年12月には、スマトラ島沖地震の際に起きた津波により、沿岸部、死者3万人以上という大きな被害を受けたことも記憶に新しいことです。

2013.11.16


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