
![]()
![]()
![]()
![]()
交響曲第7番 イ長調作品92
SYMPHONY No.7 A-Dur Op.92
![]()
☆ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(ドイツ)
1770-1827
【大吉】
![]()
周囲に何が起ころうが、自分の成さなければならない事柄に邁進出来る。
叩かれても、叩かれても、不死鳥のごとく何度でも蘇えり、
その姿は、周囲に希望を与えることが出来る。元気を取り戻すことが出来る。
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()

![]()

交響曲第7番
![]()
では、『交響曲第7番』占ってみたいと思います。
ベートーヴェンの交響曲と言えば、あの激しい第5番、第6番が有名ですが、
この作品の頃から、再びニュートラルな状態に戻った感があります。
しかし、新たな試みは決して衰えておらず、この作品のもっとも示すところは、
この軽快なリズムにあります。
その基礎となるリズムは『長・短・短』(長い・短い・短い)の三拍子です。
また、同じフレーズを何度も繰り返すことから、一種のトランスが発生し、
聴く者を、いつしかまたこの曲に帰らせてしまう不思議な魅力があります。
最近のTVでも、のだめカンタービレの主題曲に使用されており、
また、NHK BS クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスの予告編として、
地上波でこの曲が紹介されておりました。
名曲探偵のほうは、奇しくも、開運!クラシックミュージックがスタートしたのと
ほぼ同時期に放送されていたので、私の記憶に強く残っており、
いつかこの曲を取り上げたいと思っていました。
現在(2008年8月)、このサイトに協力いただいているピアニスト宮川久美さんの、
ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏会も近いことから、
ベートーヴェン、さっそく行ってみましょう!!
![]()
ベートーヴェンの生年月日と名前で、
ベートーヴェンとはいったいどんな人だったのか?を
観てみることにしましょう。



ベートーヴェンは、1770年12月17日(洗礼を受けた日)生まれ。
九星:「五黄土星」 干支:「庚寅」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)
ドイツのボンに生まれる。
洗礼を受けたのは、1770年12月17日だということは分かっていますが、
生まれた日は良く分かっていません
(彼の性格判断から推測すると、私は12月16日だと思います)
祖父の代から音楽家の家系で、
祖父ルードヴィッヒはボンの宮廷楽長。
ベートーヴェンの父のヨハン(一人っ子)も、
楽師兼テノール歌手として宮廷に仕えていました。
母マリア・マグダレーナは、宮廷料理長の娘。
ベートーヴェンの兄弟は、五男二女だが、あいついで亡くなってしまい、
成人したのは次男、三男、四男のみ。
ベートーヴェンは、次男。彼は、事実上の長男ということになります。
父親は、アルコール中毒が徐々に増し、のどを患ってしまったため、
家計は、祖父の収入によってまかなわれました。
祖父が亡くなってからは、ベートーヴェンに家計を支えさせるために、
父親のスパルタ教育がはじまります。
1776年(6歳)頃父親からまずクラヴィコードを教えられる。
父親は宮廷から帰ってくると、
寝ているベートーヴェンを叩き起こし、殴りつけながらピアノを弾かせた
(同じ年齢で、モーツァルトが天才少年として一躍有名になっていた)が、
目覚しい上達ぶりを発揮する。
1778年(8歳)ケルンで最初の公開ピアノ演奏会。
1782年(12歳)よりネーフェに師事。ベートーヴェンの初期の作品の出版も彼が手がけている。
1785年(15歳)宮廷のオルガニストに就任。これより、ベートーヴェンが家計を支えていく。
1787年(16歳)ウィーンへの演奏旅行。この際、モーツァルトに弟子入りいていたモーツァルトに
出会い弟子入りを申し入れるが、その直後、母危篤の知らせが届く。母、死去。
![]()
「異形の持ち主」
やはり、彼は只者ではありませんでした。
只者ではないことは、彼の顔つきを見ても分かります。
どこか普通の人とかけ離れた人物は、やはり顔形も違うものですが、
そのような顔形のことを「異形」と申します。
不動明王さんなどは、明らかに異形です。
ベートーヴェンは、不動明王そっくりです。
皆さんも、学校の音楽室の後ろに並べられた、偉大な作曲家たちの
肖像画の中でも、ひときわ際立って目立ったのが、
このベートーヴェンではありませんでしたか?
![]()
「五黄の寅」
それは、星を見ても分かります。
「五黄の寅」という言葉をお聞きになった方がいらっしゃると思います。
「強の寅」とか「ゴウの寅」とか言いますが、正確には「五黄の寅」です。
気学は、九星とともに、十二支の配列によって、その方の性格を見ますが、
九星の中でもっとも強いとされているのが、「五黄土星」。
同じように、十二支の中でもっとも強いとされているのが、「寅」年の生まれの方たちなのです。
よく言う「丙午(ひのえうま)」と同様に、五黄の寅は強い性格を持っています。
ベートーヴェンは、「五黄の寅」です。
強くないわけがありません。
これだけ見ても、人にへつらい媚びることを嫌うのも理解出来ますし、
度重なる苦難にも、決して屈しなかったことも分かります。
![]()
「九星で見たベートーヴェン」
ベートーヴェンの、九星「五黄土星」という星は、上にも書きましたが、とにかく強い星です。
高慢で強情。気難しいところがあります。
プライドが高く、また寛大でもあります。
面倒見が良く、親分肌ですが、疑り深く、些細なことでも悩みやすいところがあります。
彼の生まれた月の九星は、「一白水星」という星であり、
頭が良く、細心で面倒見の良いところがありますが、
やはり気迷いが多く、人の忠告は聞かず、いつもひとりで悩んでいるところがあります。
![]()
「陰極まりて陽」
彼は、根っからの芸術家です。上記のような強い特性が、
彼の場合、すべて感性となって表れるのです。
そう、それはちょうど宇宙のはじまりであるビッグバンを彷彿とさせます。
一白水星とは、ちょうど何もない暗黒空間のような状態を指します。
五黄土星とは、黄金の光の世界です。
無から、有へ。
最低から、最高へ、人の気持ちを転換させることの出来るのが、
彼の音楽です。
日本には、彼の特質と瓜二つの素晴らしい言葉があります
![]()
「陰極まりて陽」です。
![]()
これは、「落ちるところまで落ちたら、後は昇っていくだけ」と申します。
これは、季節で言えば「冬至」を表します。
(そういえば、ベートーヴェンの誕生日と冬至の日は、とても近いですね)
ところが!季節や運勢は、一度落ちると徐々に再び昇っていきますが、
彼の場合、音楽の力を使って、一気に上り詰めます!
「絶望」から「歓喜」です!!
私が今までに見てきた音楽家たちは、多少なりともこの、
絶望からの脱出を、音楽によって見事に成し遂げていますが、
ベートーヴェンは、その中でもそのことについては逸脱していると言って良いでしょう。
この溢れるパワーこそが、『楽聖』と呼ばれるゆえんなのでしょうか?
![]()
交響曲第7番の作曲されたのは、1811年から12年にかけて。
ベートーヴェンは、41歳から42歳になる頃です。
(初演は、1813年12月8日、ウィーンにて、ベートーヴェン自身の指揮で行われました)
![]()
ここでもまた、ベートーヴェン厄年が出て参りました。
私たちが考えているよりもずっと、厄年というのは悪いことばかりでない気が致します。
![]()
にも関わらず、この頃のベートーヴェンの運勢を見てみると、
どこかパッとしません。
目的を完遂してしまった後の、スポーツ選手のようなところがあり、
とりあえず前に進むかのような、それでも着実に成績だけは残していこうというような、
それまでのベートーヴェンと比べると、ゆったりとした時の流れを感じるのです。
(あのパワフルな第五交響曲《運命》は1807〜1808に作曲、
第六交響曲《田園》1808夏に完成)
![]()
これはベートーヴェンの年齢の影響もあるかも知れません。
当時、42歳という年齢は、決して若くはありませんでした。
![]()
経済的困窮
実際、この頃のベートーヴェンは苦悩にあえいでおりました。
そのひとつは、生活費の困窮です。
当時のベートーヴェンの俸給は、三人の貴族によって支払われていました。
ルードルフ大公から、年間1500フローリン、
ロブコーヴィッツ侯爵から、年間700フローリン、
キンスキー侯爵から、年間1800フローリンの計4000フローリンです。
これは1809年に成立した「音楽憲章」の項目のひとつでした。
実際、1807年の秋にナポレオンの席捲(せっけん)によって生まれた、
ヴェストファーレン国の王、ジューロム・ボナパルトより、
宮廷音楽家としての招聘(しょうへい)を受けておりました。
音楽憲章は、国の誇りであるベートーヴェンをウィーンに足止めさせるための、
近親者によって練られた策でありました。
ベートーヴェンは、ウィーンに留まることを選びました。
しかし、運命のいたずらから、
ベートーヴェンは、決して幸せになれませんでした。
![]()
オーストリア、フランスに宣戦布告
1809年4月。オーストリアは、フランスに宣戦布告しました。
これは、ベートーヴェンへの「音楽憲章」が成立してわずかひと月後のことです。
程なくして、オーストリア軍はフランス軍に敗戦しました。
オーストリアはフランス軍の占領下についてしまいました。
1810年には、物資が不足し、インフレ状態が続きました。
1811年、国の対策として新貨幣が出回りましたが、
これは旧通貨との比が一対五というものでした。
つまり、ベートーヴェンの俸給4000フローリンは、800フローリンの価値しかありませんでした。
![]()
支払い人たちの没落
ベートーヴェンの年金支払い者のひとりである
ロブコーヴィッツが、宮廷劇場の経営困難から破産してしまい、
財産を管財人によって押さえられたため、
1811年9月1日ー1815年4月19日まで
ベートーヴェンの支払いは打ち切られたままでした。
また、キンスキーは1811年11月に落馬で急死してしまい、
1812年11月3日ー1815年3月31日まで
やはり支払いが停止されてしまいました。
![]()
愛しい人たち
生活面での困窮。戦争の影。
そんな状況にありながら、交響曲第7番は、明るさに満ちております。
第二章でやや影があるとはいえ、全体的に軽く希望に満ちた曲となっております。
その要因のひとつに、ベートーヴェンの恋があげられると思います。
1809年:下記で登場する主治医ジョバンニ・マルファッティの姪である、
テレーゼ・マルファッティ(かの「エリーゼのために」のエリーゼである)。
1810年5月:文学者アルニムの婚約者であったベッティーナ・ブレンターノ。
1811年夏:下記テプリッツで城内の庭園に散歩していた時に知り合った、
ファルンハーゲン・フォン・エンゼの妻、ラーエル・レヴィーン。

そしてベートーヴェンの死後、秘密の引き出しから出てきた三通の手紙。。
名前は、記されておらず、彼女の呼び名は、このように書かれている。
「不滅の恋人」
日付は1812年7月6日〜。
テレーゼは、結婚の申し込みまでしたが断られ、
ベッティーナは、当然のことながらアルニムと結婚した。
「不滅の恋人」の正体は、今もって謎とされているが、
1812年6月に完成された交響曲第7番が、
不滅の恋人との恋の想いが反映されていると見るのは、
どうも間違いないようである。
![]()
テプリッツへの保養の旅
1811年、ベートーヴェンは主治医マルファッティのすすめにより、
この年の夏をテプリッツで過ごしています。
方位学で見たところ、テプリッツは、ウィーンから見て西北にあたります
健康運・恋愛運・仕事運を見てもあまり良い方位とは言えません。
ところが、ウィーンに戻ったのが、九月の半ば。こちらの方角は、ちょうど東南となり、
「大きな力で仕事運、恋愛運が調う」となります。
ウィーンに戻ったこの頃から、彼は交響曲第7番の本格的な作曲活動を展開しています。
![]()
「再び、陰極まりて陽」
ベートーヴェン交響曲第7番は、ベートーヴェンの波乱の生涯のなかでも、
良いも悪いも含めて、波の過ぎ去った後のような時期に書かれた作品
だと言うことが出来るだろう。
ベートーヴェンのような人間は、決して平穏であることを好まない。
むしろ、自ら物事を波立てていきそれからまた作品作りに没頭する、
どうも意図的にそうしているとしか思えない。
「冬至」のことを、一陽来復という。
ゼロのなかに、一という光が差し込み始めた瞬間だ。
ゼロは、通過点でしかない。
その後は、すぐにまたあらたな物語りが始まるのだ。
交響曲第7番をアップするにあたって、
私は雪と氷の中にそびえる木立の写真を持ってきた。
これがこの曲に対する私のイメージだ。
そして、ひたすらに、どこまでも前向きに、
滑走する馬のひずめのようなリズムの繰り返しは、
こんなふうにも聞こえてこないだろうか?
学するものは日に日に益し、道するものは日に日に損す。
損して損して無為と成す。無為にして成さざるは無し。《老子》
・
・
・
ベートーヴェンの人生は、「未来の可能性は無限に広がっている!」です。
『人生』とは、痛みを伴う、奇怪なシナリオです。
ところがベートーヴェンにとっては、そんな実人生でさえ、
彼の多くの作品の中の、ほんのひとコマでしかありませんでした。
1827年3月26日午後5時45分。
ベートーヴェンは、その波乱の生涯にピリオドを打ちました。
56歳でした。
亡くなる直前、彼はこんな言葉を近くにいた人たちに残しています。
「諸君、喝采したまえ!喜劇は終った」
![]()
この曲を聴くと、こんなことが起こります。
![]()

![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
and more・・・
(☆をクリック!行って、戻ってきてください。一度音を消してからお聞きください)
![]()
交響曲第7番
Carlos Kleiberによる指揮のものが再生されにくくなりましたので、
Karajan指揮による演奏のご紹介に切り替えます。
私としてはCarlos Kleiber指揮によるものが、好きですけれどもね。
![]()