開運!クラシックミュージック





ピアノソナタ 第8番 ハ短調「悲愴」作品13より〜 第二楽章〜
Sonate fur Klavier Nr.8 'Pathetique' op.13


ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(ドイツ)
1770-1827




【大吉】

愛する人のために、自ら生きる“覚悟”を促します。
“生きること”の意味を見出し、自ら自分自身を救います。
弱気になった時には、いつでも自分を助ける存在が顕れます。
ひとまわり、“大きな自分”になることが出来ます。





遠い空を、飛行機が飛んでいく。
あんなに大きくて、力強さだけを思わせる飛行機だけれど、
僕が見た、あの日の飛行機は、
なんだか間が抜けていて、まるで飛んでいってしまった風船のようだった。



『ピアノソナタ第8番(英語:Sonate fur Klavier Nr.8 'Pathetique' op.13)』は、

ドイツの作曲家ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年12月16日?-1827年3月26日)
が1798年に完成させました。

彼の作曲したピアノソナタの中でも、初期の作品の頂点を為すと言われており、

第14番「月光」、第23番「熱情」と共に“3大ピアノソナタ”と呼ばれる彼の初期の傑作です。

標題の《悲愴》は、ベートーヴェンが自ら楽譜の扉に記した
“悲愴大ソナタ”より採られています。

確かに、第一楽章は、重く打ちのめされるような激しいピアノの音が続いていきますが、

この第二楽章では、美しいロンド形式の緩徐(かんじょ)楽章となっており、

愛するものへの深い感謝の“祈り”を感じさせます。
ドラマ“のだめカンタービレ”では、千明とのだめが出会うシーンでこの曲が使われています。

 

「悲愴」について
                                  悲しく痛ましいこと(さま)
                                                                 〜 《大辞林より》
 〜

 ベートーヴェン自らがつけたというこの標題の意味合いを、
第二楽章を聴く限りでは、まったく想起出来ません


虚しい中にさえ、湧き上がるような力を感じ、
悲しみの中にさえ、どこまでも広がっていくような希望を感じます。

たとえば、この曲をオーケストラで演奏したら、
開運!クラシック〜の第一曲目、威風堂々のページのイメージに、
どこかつながって来はしませんか?


心静かに、
とめどなく 溢れくる涙は
 感情の赴くままに 流し去り

告げられた苦しみよりも なお
認め 生かされたことへの

深き喜びと 感謝の心こそ

彼には良く似合います。



それにしても、彼自身が標題を付けることはめったにないそうで、
ピアノソナタの作品のうち、この曲の他には、
26番の《告別》しかないそうです。

原題:〜  La pathetique《悲愴》(仏) 〜

1 〈光景・物語・手紙などが〉哀れな[をさそう], 痛ましい

2 感動的な, 感動させる;感情による[から出た].

3 〈努力・利息などが〉ごくわずかの, まったく不十分な.


                                 〜プログレッシブ英和中辞典より〜

辞書を紐解いてみると、
 日本語にはうまく訳し切れない言葉であることが分かります。
心動かされる“悲愴”の感情がどこからくるのかと言えば、
それは“同情心”と捉えると良いのではないでしょうか。

ベートーヴェンが、このように副題を付けるということは、
やはり、この曲に対する、彼の強い思い入れを感じずにはいられません。






ピアノソナタ第8番






では、今回は、前回の続き、第二回目ということで、
ベートーヴェンの生年月日と名前で、
ベートーヴェンのその後の人生を、
観てみることにしましょう。




ベートーヴェンは、1770年12月17日(洗礼を受けた日)生まれ。
九星:「五黄土星」 干支:「庚寅」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)

ドイツのボンに生まれる。
洗礼を受けたのは、1770年12月17日だということは分かっていますが、
生まれた日は良く分かっていません
(彼の性格判断から推測すると、私は12月16日だと思います)

祖父の代から音楽家の家系で、
祖父ルードヴィッヒはボンの宮廷楽長。
ベートーヴェンの父のヨハン(一人っ子)も、
楽師兼テノール歌手として宮廷に仕えていました。
母マリア・マグダレーナは、宮廷料理長の娘。


(以下、前回「ベートーヴェン、交響曲第7番」の続き)


1789年(18歳)ボン大学入学。ヨーロッパの中でも自由主義に溢れている校風だった。
シュナイダー教授に師事。彼はベートーヴェンの思想に深い影響を与えることとなる。
同年、7月14日、フランス革命勃発。
1790年(19歳)マリーア・テレージアの後を継いだ名君ヨーゼフ二世没。
ヨーゼフ二世を悼むカンタータを作曲したが、あまりにも時間が短かったため、
演奏されることはなかった。
ボンに立ち寄った、旅行中のハイドンに会う。
1792年(21歳)ボンより、ウィーンへ。宮廷を離れ自由な市民となる。
そして、父の死。この年初めてハイドンに師事する。

1794年(23歳)ピアノソナタ第一番完成 フランス革命軍ボン占領。
これによって、宮廷がなくなったことから、
ウィーンに留まることとなる。弟カールウィーンへ
1795年(24歳)ピアノソナタ第二番完成 弟ヨーハンウィーンへ
1796年(25歳)2月〜夏、プラハ、ベルリン旅行 耳病の原因
ハイドンに内緒で、シェンクに師事。
その後、ハイドンと疎隔となり、アールブレヒツベルガーに師事。
1797年(26歳)ナポレオン軍北イタリア侵入、ウィーン進撃
 ウィーンの街は自由主義とは反対の空気の流れる街と化していった。
1798年(27歳)この頃から耳の病が深刻化してくる。《悲愴》完成。
1799年(28歳)《悲愴》発表。
5月ブルンスヴィック家のテレーゼとヨゼフィーネ来訪。ピアノを教える。
これが縁となり、テレーゼの弟た従姉妹も生徒となる。



「耳の病の苦しみ」

ベートーヴェンと言えば、今でこそ、難聴の苦しみを抱えながら、
それにもめげずに偉大な曲を次々と書いていったというイメージがありますが、
当初は、そのことを誰にも言えず、筆舌に尽くし難い苦悩を抱えていました。
下記に、難聴の原因と思われる出来事を記しましたが、
一説には、子供の頃、父親の激しい教育により、
耳をぶたれたからだという方もいらっしゃいます。

また、慢性的な腹痛や下痢を抱えていました。
晩年には、甥カールのことについての精神的苦悩もありましたでしょう。
また死因である肝硬変は、質の悪いワインを飲みすぎたために起こったものであり、
最期には黄疸が表れ、肝不全となっておりました。



ハイリゲンシュタットの遺書

この時期のベートーヴェンの心情を理解するには、
あまりにも有名なこのお話をしなければならないでしょう。

1827年3月。ベートーヴェンの死後すぐに、見つかった、
甥のカールと弟のヨハンに宛てて書いた手紙です。

“遺書”と呼ばれているものの、
その内容は、苦難と絶望の淵にあったベートーヴェンの、
深い孤独の魂の告白であり、
また、それらを乗り越え、力強く、生きていく、
知恵と愛と勇気がしたためられており、
その彼の覚悟に触れた時、
きっと誰もが感動を覚えずにはいられないことでしょう。


この手紙は1802年10月6日に書かれており、
本文中、6年前より耳を患い・・・と書かれた箇所があることから、
1796年頃、そのきっかけとなる出来事があったはずなのです。


難聴の始まり

手元にある資料の中に、興味深い記事がありました。
それには次のように書かれています。
「1796年の夏のとても暑かった日、部屋の戸と窓を開け放ったまま、
服を脱ぎ、ズボンだけになって風にあたっていた。そして危険な病気になってしまった」

その病気とは、何らかの熱病(天然痘ではないかと言われている)ということですが、
気学で見たこの年の彼は、一見、安泰そうに見えます。
確かにこの年の彼は、2月から夏までベルリンに演奏旅行に出掛けており、
仕事も順調そうです。

ですが、ウィーンからベルリンは、西北位に当たりますが、
この年の西北は、暗剣殺+歳破という大凶位であり、
胸や呼吸器、高熱などの病を生じやすい方位でもあります。

このことについて、占ってみた結果、
彼は、旅行中、7月に上記の理由から
熱病にかかったことが原因で耳を悪くしたのではないかと、私は思います。



“悲愴”に込められた想い

ベートーヴェン自ら、この曲の副題をつけたことは、先ほどお話しました。
そうしたからには、やはり、それなりの理由があったはずです。

(私は、今回もこの項目を深く考察するために、
タロットカードの力を借りました。)

そこにまず出てきたものは、圧倒的な“孤独”を示すカードです。
そして、次にベートーヴェンの心を示すものに、家庭、家族のカードが出てきました。

確かに、聴力を失うことは、ベートーヴェンにとって辛く痛ましいことであったでしょう。
しかし、それよりもなお、ベートーヴェンをそれほどまでに苦しめたものは、
『自分がいなければ、家族はいったいどうなってしまうんだろう』という危機の想いでした。
実際この時期に、ベートーヴェンの弟たちが、
どれだけ自立を果たし、どれだけベートーヴェンの手を離れていたかは分かりません。
しかし、カードにはそのように出ています。



自らの不注意のために、音楽家にとって大切な耳を、
こんなふうにしてしまった。
自分が倒れてしまったら、助けてくれる誰かなど居やしない!
自分がおかしくなってしまったら、
自分を面倒見てくれる人など居やしない!
だから、私は倒れるわけにはいかないんだ!
どうする?
落ち着いて・・・そう、落ち着いて・・・。




ベートーヴェンが、今まで学んできた心の修養である、
「徳」の教えは、
こんなときにこそ、発揮するべくして、
学ばされていたはずです。

ベートーヴェンは、さも、自らを客観視して、
自らの心の主治医となるべく、
この、ピアノソナタ第8番第二楽章を書いています。


この曲が完成したのが、1798年です。
気学で見ても、この年のベートーヴェンは、
自分との対話がテーマとなっており、
これからどちらに進んで行くか?重要な分岐点となっております。
1799年は、すでに新しい出来事の出発です。



その後は皆さんもご存知かと思いますが、
彼は、あえてその孤独な人生を突っ走って行きます。

馬車馬の如く、突っ走っていく人生。
誰も、彼の苦しみをどうもしてやれない、
ベートーヴェン自身もどうしていいか分からない、
でも、行く先だけは決まっている。
彼は、彼自身の孤独な人生を突っ走っていくしか方法がないんです。

この第二楽章は、そんな彼のこれからの人生のなかの、
しばしの休息。
彼の偉大な心情の中には、
どんな美しいきらめきと想い出が詰まっているのでしょう?


この曲を聴くと、こんなことが起こります。








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ピアノソナタ第8番