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弦楽四重奏曲第17番へ長調作品3-5第2楽章『セレナーデ』
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【中吉】
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他のために生き、人々から尊敬されるような人徳が授かる。
様々なこだわりを捨て、本来の穏やかな自分を取り戻すことが出来る。
傲慢な人間がこの曲を聴くと、謙虚さが備わってくるが、
元々謙虚な人間は、他の曲を多く聴いたほうが良いでしょう。
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『ハイドンのセレナーデ』について
弦楽四重奏曲第17番へ長調作品3-5第2楽章は、
長らく「ハイドンのセレナーデ」と呼ばれ、
親しまれて来ました。
しかし、現在ではホーフシュテッターの作品であることが明らかになっています。
ホーフシュテッターはヨーゼフ・ハイドンの信奉者でありました。
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ホーフシュテッターは、オーストリアのベネディクト会の修道士でした。
そして、ハイドンの音楽様式に倣って自らも作曲を行ないました。
彼は作曲で生計を立てていたわけではありませんので、
なんとアマチュアの作曲家ということになります。
これが明らかになったのは、まだ最近のこと。
1939年頃から、本当の作曲者の存在が問われていましたが、
1964年モーツァルト研究でも名高い、
H.C.ロビンズ・ランドンらによってそう結論づけられました。
ハイドン(1732-1809)と同じ時代にありましたから、
楽譜出版社が、「ハイドンの名にしたほうが売れる」ということで、
「ハイドン作」として発表されてしまったようなのです。
(何しろハイドンは、その様式を完成させた『交響曲の父』ですから)
ホフシュテッターの生きていた当時は、
そういったことがごくあたりまえに行われていたようです。
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しかし、これほど有名になったということは、
この曲がまるで、
本当にハイドンが作曲したほどに素晴らしかった、ということになります。
私はこの曲をご紹介する経緯で、この事実を知りました。
思いがけず登場した、「ホフシュテッター」。
果たして、いったい彼はどんな人だったのでしょうか?

セレナーデ
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では、『ハイドンのセレナーデ』占ってみましょう。
まず、ホフシュテッターの生年月日と名前で、
ホフシュテッターがどんな人だったのか?を見てみることにしましょう。



ホフシュテッターは、1742年4月24日生まれ。九星:「六白金星」 干支:「壬戌」
ローマン・ホーフシュテッター(Roman Hofstetter)
ドイツ、バートメルゲントハイム近郊に、双子の兄弟として生まれました。
オーストリアのベネディクト会の修道士でした。
ホフシュテッターは1763年(21歳)アルモルバッハ(現在バイエルン)の
ベネディクト会の大修道院に修道士になりました。
1766年(24歳)には司祭となり、その後院長となりました。
1803年(61歳)修道会が解体するまで、この場所に留まりました。
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ホフシュテッターの、九星「六白金星」という星は、
もっとも天に近い星で、清く、正しい、純真さを持っている男性性の星です。
彼の生まれた月の九星は、「三碧木星」という星であり、
新しいものへの感性を強く持ち、愛情深く、想像力が豊かであり、
ズバリ、音楽に対する興味を強く持つ星です。
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ホフシュテッターを総合して占ってみると、
まず、とてもまじめな方だということが分かります。
芸術や、学問を好み、人望厚く、家庭を大切にしますが、
慎重すぎて、好き嫌いの多いところがありますね。
様々な困難があって、苦労したと思います。
プライドが高いわりには、心配性なところもあったりして、
ちょうどこの曲とおなじように、
親しみのある人間性を持たれた方だったのではないでしょうか。
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『ハイドンのセレナーデ』がパリで出版された1777年、ホフシュテッターが35歳の年でした。
今回はこの年に注目してみたいと思います。
気学の盤で見ると、この年の彼の運勢は、大吉。
物事の完成、躍進を表しています。
しかし、行動面を観てみると、表立った行動が感じられず、
精神的な喜びばかりが、どこまでも高みに昇って表れています。
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ここで、ハイドンの星を出してみたいと思います。
ハイドンは、1732年3月31日生まれ。九星は、七赤金星となります。
(七赤金星は、喜びの星。人生の豊かな楽しみ全般を表す星です)
ハイドンの名がつけられたこの曲が出版された1777年は、七赤中宮。
これは干支で言えば、ハイドンは年男にあたります。
様々なことがらが、ハイドンを中心として、動いていくのです。
しかも当のハイドンは、中心にいますから動きません。
周囲がそのように動くのです。
前述したように、この曲はホフシュテッターの作曲したものにもかかわらず、
「ハイドン作」という名目で出版されてしまいましたが、
やはりそのせいもあってか、楽譜もよく売れました。

それから、1964年にH.C.ロビンズ・ランドンが真相を発表するまでの、
長い年月、この曲はハイドン作によるものだということを、
誰一人信じて疑わなかったのですから、すごいものです。
当のホフシュテッターは、自分の作曲したこの曲が、
まさかそのような展開になっていたなどとはを、
まったく知らなかったというのですから、驚きです。
自分の憧れのハイドンの名前が、自作の曲につけられて後世に残ったことを、
ホフシュテッターは今、どんな気持ちで過ごしているのでしょうね。
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ホフシュテッターの双子の兄弟である
ヨーハン・ウルバン・アーロイスも、役人であり作曲家でありました。
(7つの交響曲等の作品あり)
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また、 「スウェーデンのモーツァルト」と呼ばれた
ヨーゼフ・マルティン・クラウス(1756-1792) とは、
同郷の出身だったこともあり、緊密な関係にありました。
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この曲を聴くと、こんなことが起こります。
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and more・・・
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